5月7日に東大前切りつけ事件、5月11日は千葉市若葉区の84歳路上殺害事件。前者の40代男性の動機は、表向きは「学歴重視社会に対する親御さんの教育虐待に対する警鐘」です。
実際は、実家とは疎遠となり長野県の田舎で一人暮らし。実家は裕福という情報もありますが、社会的孤立、経済的要因(仕事の失敗)が原因か。
84歳路上殺害の通り魔事件の犯人は、なんと15歳の中学3年生。事件前に、少年補導専門員が定期的に面談する「継続補導」が行われていた。犯行理由は、「家にいたくなかった」。完全に親子間のコミュニケーションが断絶され、家庭生活が破綻していたことが明白です。
池田小学校事件が破滅型思考の無差別犯罪の原点か
東大前切りつけ事件も84歳路上殺害事件も、ともに破滅型思考の無差別犯罪です。昔からあったと思いますが、エポックメーキングとなった事件は、2001年の大阪府の池田小学校事件。小学1,2年の児童8名が殺されました。
世間を戦慄させた池田小学校事件の犯人、宅間守氏の犯行方法や動機は、その後の破滅志向型の無差別犯罪事件の特徴をよく表しています。
犯行方法としては、捕まることを恐れない大胆な犯行。自分の存在を誇示するかのような劇場型犯罪。公共機関、公的施設など、大勢の目の前で凶器を振るい、社会を震撼させる。逃亡することを考えていない。相手は誰でもよいという無差別犯罪。弱者を狙う。
動機としては、社会への強い憎悪。人生への絶望。社会的孤立。経済的孤立。死刑になることが目的。現在の居場所から離れたい。裏返せば、今の自分の居場所に充足感を得ていない。自己顕示欲の強さ。
一言でいえば、生きることに「希望」を持てず、社会とのつながりも希薄。いかがでしょうか。現代人であれば、共感する部分があるのではないでしょうか。本当に、加害者である彼らは「異端者」なのでしょうか。私は疑問です。
もはや現行刑法では対応できません。
池田小学校事件以後、秋葉原通り魔事件(2008年)を筆頭に、「死刑」目的の犯罪が多発しています。
「確実に死刑になるためには、多数の人を殺す必要がある」と計算して行動する例も。死刑制度が「死ぬ手段」として、社会的孤立者で、現在の居場所から逃げ出したい(たとえあの世であっても)。そんな彼らの「救済策」となってしまっています。
死刑を望んでいる彼らに対し、「厳罰せよ」「極刑だ!」と騒いでも解決しないのです。刑法の一般予防説の観点から、このような破滅志向型犯罪、自殺目的の犯罪を止めることは不可能です。SNSの暴走、「無邪気」なコメントは、政治家の汚職から目をそらし、マスコミに無償でネタを提供することに一役買っているだけです。
精神障害者視点で見ると、彼らの犯行の背景は共感できるところが多い
私は、兵庫県西宮市で、精神障害者の男性当事者会を主催しています。参加者は、非正規雇用で低年収、無職、ひきこもり(社会的難民)、パワハラ犠牲者など。1対1で何時間もお話しする機会も多々ございます。破滅志向型の犯罪者の心理は、当事者会の方とほとんど「紙一重」だなと感じています。
破滅型思考に駆り立てる社会的孤立、人生への絶望感などは私にも共有されています。長い闘病生活による身体的・精神的苦痛、無職、正社員への再就職が不可能なほどの空白期間の長さ。
厚生年金未加入のため、老後は圧倒的な貧困生活が「約束」されています。同居する親の年金がなくなれば、どうなるのか。将来への不安があります。8050問題も間近に迫っている。親が亡くなれば、市営団地への居住資格を取り消され、追い出される可能性もある。
40代、50代となればバイトですら就職口がなくなる。「いま」以上に惨めな人生が待っている。となれば、まだ体が動くうちに、自分の人生に始末をつける。自殺するのは怖い。いっそのこと、自暴自棄なやけっぱちな犯罪行為に走ろうとする。
悪質なパワハラを受けて、日本の労働市場から追い出された中高年ひきこもりの人もおられます。自然と、職歴の空白期間も多く、いざバイトや就職面接などで年下から「いままで何やってきたの?」とせせら笑われ、社会に対する復讐心も十分に育成される。人間を行動に駆り立てるのは「怒り」の感情です。自殺する勇気はなくても、復讐という名目で人を殺すことのハードルはまだ低い。
彼らは常に「身勝手な奴」「頭のおかしい狂人」と一方的に断罪されます。確かに「誰でもよかった」「ともかく殺したかった」という彼らの供述は狂人とも取れますが、怒りの矛先を向ける先が他になかったのではないでしょうか。
社会の構造的暴力に対して「窮鼠猫を噛んだ」ともいえる
頂き女子から「おぢ」とバカにされる中年男性。おじさんであれば、いくら差別的発言しても許される。「30、40代にもなってフリーター?」こんな奴はバカにしても当然だという空気。これまで正気を保ちつつ懸命に生きていた彼らが、社会から嘲笑され、見下されてきた結果、「窮鼠猫を噛んだ」。冷静に事件の背景を分析すると、彼らの破滅志向型の無差別犯罪に共感する部分があります。
一方がすべて悪。そのような思考こそ歪んでいると思います。
最上あい事件はどうでしょうか。加害者に同情が集まりました。この事件は、被害者が圧倒的に悪者であり、法治社会(≒放置社会)が裁けない社会悪に対して正義の矛を振り落とした。そんな事件でした。
2021年の愛知県弥富市中学校刺殺事件では、14歳の少年が同学年の男子生徒を包丁で刺殺しました。加害生徒は「被害生徒によりいじめられていた」と動機を述べております。学校側は何の対処もせず、見て見ぬふり。加害生徒は自己防衛をした。傷つけられた自尊心を回復し、自身の日常を取り戻すために、ファンタスティックな「非日常」を起こさざるを得なかったのではないでしょうか。
いつものごとく「いじめは認定されなかった」と学校報告がありましたね。しかし、強い怨恨がなければ刺殺などしないでしょう。
海外では学校襲撃事件の加害者の多くは、いじめ被害者であったという報告もあります。
私は、このような「凶行」が起こるたびに、もどかしさが募ります。
自己責任の一言で片づけてしまう現代社会に対するアンチテーゼを読み取れます。こういう負のエネルギーの処理に関し、池田小学校事件以降、社会はおざなりな対応をしてきたのではないかと思うのです。
精神障害者、無職、非正規、低年収、ひきこもり(社会的難民状態の人)、パワハラ犠牲者らは、常に社会から疎外され、社会に対する憎悪、人生への絶望を抱えている。対極に位置する人たちは「ああ、自分はこんな風にならなくてよかった」と対岸の火事のごとく、春風駘蕩のていで冷たい視線を浴びせる。
私利私欲にまみれた個人主義の暴走(行き詰った個人主義)、日本的家族社会の崩壊、宗教の道徳律がない戦後日本の倫理観低下、最高道徳である自己犠牲という愛国心の破壊、米国製の義眼をはめつけられた戦後日本人の歪んだ歴史観。こういった戦後日本の宿痾を、高度経済成長や所得倍増などのアメという物質主義でごまかせなくなった弊害が一挙に、菜種梅雨のような小雨の影響さえカバーしきれない、田舎の掘割のごとき脆さをさらけだしてしまった。
日本社会の暗部が、ここぞとばかりに頭をもたげてきたのではと思います。社会的動物としてはもう終焉を迎え、人生オワコンとなった。が、まだ身体的動物として動けるうちに、自分にダメ出しした社会に対して反撃をする。悪徳政治家、暴力団、カルト宗教の指導者、裁かれない米兵犯罪、暴利をむさぼる財界の重鎮、芸能人・・・こういった連中に反撃したのが山上徹也さんによる安部元首相銃撃事件でした。
山上徹也さんによる安倍元首相銃撃事件は、外国の新興カルト宗教による日本人への宗教的搾取事件に対する反撃。リベラルの皮を被った反日主義者、安倍アンチによる「どうしようもなヨイショ」は水を差す雑音となりましたが、反撃する矛先を見失わず見事に初志貫徹された。この事件をきっかけに、日本女性は朝鮮男性の性の玩具となって身を清めなくてはならないという、悪質なカルト宗教の闇が暴露され、日本社会が正しい方向へと一つ前進したと思います。
ですが、個人による自滅覚悟の特攻。そんな神頼みに世間の世直しを期待するのは、安寧に保たれるべき社会秩序の観点からも是とは絶対になりません。精神的にギリギリの状態に陥っていたであろう山上氏。一歩間違えれば、ただの「身勝手な凶行」に及んでいた可能性も高いでしょう。
破滅志向型の無差別犯罪という凶行。もっともらしいことを非難する。自分は、「正常」な人間なんだと正義面をする。率直に申し上げると、それがダメだと言っているんです。彼らの心の葛藤をよく理解し、自分も「紙一重」の状態に置かれることを認識して、しかるべき処方箋がないものかと思案することが大人の取るべき筋だと思います。
犯行の背景は共感できます。ですが、社会に対する復讐という美辞麗句を掲げ、無関係の第三者、特に子供に狂気の刃を向けること自体には共感の余地はありません。精神障害者の当事者の人たちも、この点だけは理解できないというのが大半でした。自分をイジメた連中の名前を手帳に書き記し、逮捕されるまで、計画的に復讐をしていけばよいのです。因果応報。殺された奴にはしかるべき理由があり、私は単純な同情など寄せません。殺した人間にも一部の利があるものと考えております。
私は、正直言って残念でなりません。自暴自棄的な凶行に走る直前でもいい。なにかストッパーが、彼らに対する「希望」が、そういうものが提示されない限り、凶行に歯止めはかからないと思います。
数十年前からみんな薄々とは分かっていたことです。気づかないふりを装っていたほうが楽なのでしょうが、やはり声を上げていくべきだと思います。そんな私も気づかないふりをする、情けない精神障害者のひとりです。しかし、こんなにも凶行が続けば、社会全体にとって大きなマイナスです。就職氷河期世帯へのケアにこだわらず、弱者男性、社会的難民者(孤立者含む)に対するケアを行政が主体となって実施していくべきでしょう。