今日は、西宮市のひきこもり(社会的難民)支援団体さんが主催しているセミナーに参加してきました。
会場は込み合っていましたが、協力団体のスタッフが半分以上か。
私みたいな「お客様」は珍しい。まあ私のような”そともの”はどこでも嫌われます。
日本文化ですね。「”うち”の者には優しく、”そと”の者には冷たい」
中高年ひきこもり、高齢者ひきこもり。ひきこもり(社会的難民)は、別に青年だけの問題ではありません。
ひきこもり(社会的難民)の定義も少し話題になりましたが、「ひきこもりの評価・支援に関するガイドライン」をひもとくと、
様々な要因の結果として、社会的参加(就学、就労、家庭外での交友など)を回避し、原則的には6か月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態を指す現象概念(他者と交わらない形での外出をしていてもよい)
上記の定義に追加して、ご本人や同居するご家族が、日常・社会生活を送るうえでお悩みやトラブルを抱えていることも含めて理解すべきでしょう。家庭内暴力や暴言、自殺企図、8050問題に代表する将来的な生活の不安など。
ひきこもり(社会的難民)のどこが問題か
今回参加したセミナーでは、残念ながらパネリストの登壇者ら、当事者であるひきこもり(社会的難民)になったことがないものだから、実態がよくわかっていない。
サッカーファンで、サッカーの技術も戦術もよく知っている。ならばプロサッカー選手になれるか。そうではないでしょう。
ただ家の外に出ない。部屋の外に出ない。食事作りや洗濯など家事全般をしない。家の者ともほとんど話をしない。でも社会に迷惑を掛けていないからいいんじゃないのか。
スタッフのひきこもりサポーターの主張には唖然としましたよ。そうじゃないでしょう。
ご本人だって表面上は「別に問題はない。ほっといてくれ」ぐらい言うでしょう。ならば問題はないのか。
もちろん周りの人間がしゃしゃり出てきて、よそ様のご家族の問題にくちばしを挟むのはいただけません。が、
社会との関り合いが減るというのは、それだけで本人の生きる力を徹底的にそぎ落します。
「働かないと食っていけないんだから」と就労支援を勧めるのはよしとしないまでも、いつか必ず訪れるであろう自分の困りごとを自分で解決する能力。
ある程度の社会性がなくては、どうするのか。親が勝手に心配している。ご家族が世間体を気にしている。そんな簡単な問題じゃない。
高齢者ひきこもりの方が深刻な課題なんです
私は、ひきこもり(社会的難民)をより高次元で捉えています。特に中高年ひきこもりは労働問題です。ぶっちゃけていえば、心の問題じゃない。
本日のセミナーでも呆れ果てましたが、どうも昭和世代の方々は「ひきこもりは本人の心の問題。心が弱い奴らでどうしようもない」という一面的な見方に支配されています。
本質は社会問題。特に、中高年ひきこもりはパワハラブラック企業で離職を余儀なくされた。労働問題。社会での働きやすさの問題。
解決策は居場所作りではない。労働相談でもない。処方箋は労働環境の改善です。そんなの政治家の問題?国や企業の問題?自分達では手が出せないって?こうやって諦めたら終わりです。
高齢者ひきこもりに関しても、彼らの場合は家の外に出なくなる=活動量が減る。当然、体も衰える。死に直結する。発展途上国にでも送り込み、野生の勘を取り戻させた方がいい。
アウトリーチ手法でむりやりにでも引っ張ってこなくては。甘いこと言ってたらすぐにボケる。本人の好きにやらせる?そういうのは無責任。
私は、青年や中高年ひきこもりはアウトリーチはお勧めしませんが、高齢者ひきこもりの場合は例外です。
原因は、定年退職や熟年離婚、パートナーとの死別などの日常社会生活の変化によるもの。だから仕方がないんだ?そういうわけじゃない。
一気にボケる。社会福祉にこれ以上金を掛ける予算があるのか。今の日本に。ボケる前の水際作戦を本気で考える時期が来ています。
今回のセミナーの問題点は?
第1部の講演会は聴衆にだいぶ受けていましたが、私はひとつも笑えなかったですね。
笑いなど10分に一度でよろしい。低年収で半ばひきこもり生活を送っている私には、電車賃だって惜しいのです。
チラシでは当事者の方が生きる活力を取り戻していくとの文言。良いお話を聞けるのかなと思ってましたが、ほとんどその点には触れていませんでした。
家の扉を24時間開放して、誰でも受け入れるという居場所作りをされているとか。田舎だからこそ出来る。再現性は低い。活動自体は素晴らしいですが、全体的に内容がない講演でした。
第2部でのパネディスでもパネリストの一人は椅子に深く腰掛け、だらしなく座る。身内だけの会だからといって、手を抜きすぎている。パワポのスライドも適当。がっかりしました。
パネディス自体もテーマすら決めていないので、だらけ切ってしまった。テーマに基づいて専門家同士が意見を交換するのがパネディス。パネディスと言えるんでしょうか。
第3部の座談会がまたダメだった。私は座談会の一つにとりあえず参加。パネディス登壇者を囲って話し合うのですが、スタッフの高齢者男性が怒り出すんですよ。
「せっかく先生が来てくれたのに、誰も質問しないのは失礼じゃないか」と。私が仕方なく質問しました。座談会の仕切りが悪いのであって、なぜ”そともの”の私が頑張らないといけないのか。
これほど不愉快な座談会はありませんでした。座談会終了後も、「あなたの質問だったけど、見識が狭い」と、今度は別の女性スタッフに絡まれる。
ひきこもり支援団体のスタッフさんが、私のような精神障害者を見下す。よくある光景です。
「もう勘弁してください」と何度も逃げようとしましたが、行く手を遮られ、年長者であり、ひきこもり支援に携わっている私の意見をちゃんと聞けと。そういう姿勢で詰められてしまいました。
その時は半ば放心状態でふらふらしてましたが(精神障害者は突発したトラブルに弱いんです)、改めて考えると、ずいぶん怖い思いをしました。一時的なパニックに襲われ、帰りの電車は何度も乗り間違えたのですから。
※セミナー、支援団体での相談などで、相談員や支援員(exひきこもりサポーター)から二次被害を受ける機会は結構多いです。支援員の方には「俺がびしっと説教してやるんだよ!」という方もいます。
まとめ
ひきこもり(社会的難民)に関しては、世代によって価値観が非常に反映される問題です。
たとえば、定年退職し、社会参加の一環としてひきこもりサポーターになった70代の方は「ひきこもり、ニートの奴らはどうしようもない」という、刷り込みのような固定観念が拭えない。
不登校のお子さんを持つ親御さん。40~50代の方は「自分の育て方にも問題があるのかな」と不安が頭をもたげる。よそのお子さんと比較し、わが子につらく当たることも。罪悪感がある。
当事者である私は、社会問題とみなす。個人的資質も認めますが、環境要因にこそ問題のウェートがあるんじゃないのか。
私が感じた不協和音は、世代ごとの価値観の違い、当事者や支援者などのアクターごとにそれぞれ問題意識が異なることにありました。
青年ひきこもり、中高年ひきこもり、高齢者ひきこもり。ひきこもり(社会的難民)にも種類があります。この点もさらに問題を難しくする。それぞれ社会的背景も別にあります。
そういった背景の理解から、ご本人やご家族の抱える悩み、現状への危機感の違いなど。切り口が非常に多い。
ある程度の交通整理が必要になってくる。そうしなくては、実りあるセミナーにはならない。ある程度の緊張感も必要。
もちろん感情のぶつけ合いを推奨しているわけではまったくありません。当事者の方は精神疾患を抱え、学校や社会でダメージを受けている。お互いを尊重する。相手の意見を批判するなどもってのほかです。
もしご自身(特に支援者の方が多い)が何か発言したいなら、ご自宅に戻って家族にでも愚痴ればいい。うちの当事者会で、今回のセミナーのようなのがあれば一発アウト。永久追放されます。
こういう点を整理しないと、協力団体の馴れ合いに終わってしまう。自己満足の世界。道を切り開くものになりえない。辛口になりましたが、まあ備忘録として。